【書評】村上春樹『風の歌を聴け』|『風の歌を聴け』はなぜ読まれるのか

本記事では今や世界的作家となった村上春樹は、なぜこんなにも支持を受けるのだろうか。その理由について、『風の歌を聴け』を読み解きながら解説を試みます。村上春樹読んでみたけど、どうして人気なんだろうという疑問を持つ人向けの解説記事です。

※ちなみかなり長文なのでご注意ください

職業としての小説家 (新潮文庫)

言いたいことはなにもない

僕が初めて村上の『風の歌を聴け』を読んだのは中学生のときです。非常に衝撃的だったのを覚えています。

それまで読んでいた日本文学とは明らかに異質なものでした。 それ以来、本作は僕のお気に入り小説に居座り続けています。しかし、つい最近になって再読するまでなぜこの小説に魅力を感じてしまうのか、自分でもうまく言語化することができませんでした。

東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』から着想を得て、今回『風の歌を聴け』について語ろうと思いました。それ故に本稿には『ゲーム的リアリズムの誕生』から多くのアイデアを貰いました。東の『ゲーム的リアリズム』も非常に面白い評論です。

本稿を書く前にアマゾンレビューで『風の歌を聴け』を見ました。その否定的レビューの多くは以下のようなものでした。

・登場人物が薄っぺらい
・感情移入できない
・何が言いたいのかわからない

確かにこれらの意見には賛同する読者も多いいのではないでしょうか。特に三番目の「何を言いたいのかわからない」というのは、多くの人が上げています。かくいう僕もこの小説が何を言いたいのかわかりません。

この小説は複数の批評家が指摘してるように「何も言いたいことはありません」と言っている小説だからです。その点においてこの小説は新しい日本文学だったのです。

多くの小説では登場人物が何らかの悩みや苦しみみたいなものを抱えて生きていています。そして物語の中でそれらを乗り越えようとしたり、逃避したり、選択を迫られたりします。そのような人間のあり方を大雑把に実存的といいます。

例えば芥川龍之介の小説「羅生門』では、貧乏な主人公が、貧困と倫理観の間で悩んだ末に老婆に強盗を働くという実存的な主題を扱っています。

『風の歌を聴け』ではこのような実存的な主題はありません。主人公は何かを乗り越えるわけでもなければ、恋愛に悩んでいるわけでもありません。何かよくわからない喪失感的なものを漂わせながら、パスタを茹でて淡々としています。

ではこの小説は、「何も言いたいことはない」と宣言しただけの小説なのでしょうか。確かに文学的には非常に重大な事件だったと思います。けれども僕には何かもっと別のことをこの小説は訴えかけてきます。 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

現実と虚構

本作の虚構性について論じようと思います。なぜなら初期の村上作品は明らかに現実と虚構をテーマに書かれているからです。現実と虚構というテーマは小説家には非常に切実な問題です。なぜなら彼らは、小説という虚構の上に現実を映し出そうとしているからです。

小説は通常、現実を模して描かれています。例えば、先程例にあげた『羅生門』は現実に即して書かれています。魔法使いやタイムスリップなんてもは登場しません。我々が生きている現実と何ら変わらないように感じます。つまりリアルに描かれているということです。

一方、ファンタジー小説は「ハリー・ポッター」なら魔法使いやドラゴン、といった想像上の生き物が出てきたり、SF小説では、タイムマシーンやら宇宙人やらが登場します。つまり現実をそのまま模しているわけではありまん。

ここで注目するのは『羅生門』や『ハリー・ポッター』はリアリティがあるのに対し、『風の歌を聴け』にはリアリティがないということです。リアリティとは、『ハリー・ポッター』のように現実には存在しない魔法使いが存在したとしても、その世界設定において現実的であるということです。読者は「魔法使いが存在する世界だとしたら、こんな感じの世界だろうなあ」と思えるということです。

では、本作はどうでしょうか。本作の舞台は非常に現実的です。魔法使いもいませんし、タイムマシーンもありません。しかし、物語の内容はまるで荒唐無稽な断片的な挿話で成り立っています。

普通はあんなキザな喋り方はしません。酔っ払った女の子の家に泊まらないです。デレク・ハードフィールドなんて作家は存在しません。つまるところ、現実を舞台にしているのに全くリアリティがないのです。

村上は小説という虚構の上に現実という舞台を設定しています。そして、そのさらに上に断片的な虚構を描いているのです。この非現実的な虚構がアマゾンレビューでも批判されています。しかし、この構造こそが我々が生きる現代を如実に表しているのではないでしょうか。

村上春樹とアニメ

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僕たちの生きる現代はまさしく、この虚構の構造の中に生きています。僕たちの世代は、戦争もなければ、戦後もない。学生運動もなければバブルもありません。性欲もないし、物欲もないです。前の世代の作家たちが問題にした実存的な主題などはありません。では、その何にも向けることのないエネルギーや欲望を我々はどこに向けているのでしょうか。

それは虚構の世界である2次元空間(インターネット空間)です。僕たちは断片的で意味のない2chや掲示板、そこら中で見ることのできるアニメや漫画、同人誌といったものを日常的に享受しています。そして、そのアニメや漫画に出てくる少女たちはまさしくリアリティーがありません。目は大きく、ロリータチックで、明らかに現実には存在しません。

現実には存在しない、そんな荒唐無稽な虚構の世界に僕たちは欲望を感じています。現実を模した世界の中で、普通の青年とデフォルメされた女の子が意味のない日常的な生活を送っている、これらは近年のアニメで繰り返し流されてきた情景です。表層は違えど、村上の作品にもそのような構造があります。

村上作品と美少女ゲーム・アニメとの類似は注目すべき点です。村上作品の主人公はイケメンというわけではなく、どちらかといえば頼りなさげな青年です。でもなぜか、とにかくモテます。美少女ゲーム・アニメでも主人公は凄いイケメンというわけではなく、何か凄い能力があるわけでもありません。でもなぜか、少女から猛烈にモテます。このマチズモを排除した青年が女性から訳もなくモテるという構造は村上作品に一貫して見られます。

もちろん村上は美少女ゲームなんてやったことも見たこともないと思いますが、彼の作品がゲームやアニメの原型であることは間違いないと思います。本作には、90年台から2000年台にかけての美少女ゲーム・アニメが象徴するような若者の虚構に対する欲望を描いた側面があるのです。

風の歌を聴くということ

それでは、この作品は美少女ゲーム・アニメなのか、といえばそうではないと僕は思います。この小説は虚構の構造の中にメタ的な視線が存在するからです。それはこの小説を書いている29歳の「僕」です。このメタ的な視線こそが、この小説に感じる魅力であり、共感であり、救済なのです。

僕たちはアニメや漫画や掲示板といった虚構の世界に大量の時間を浪費しています。しかし、ふとした瞬間に現実に帰り、僕は/私は一体何をやっているんだろうと思う、そんな空虚さや不安があります。

その漠然とした不安を29歳の「僕」は共感し、淡々と、しかし力強く肯定してくれます。

僕らの時代は戦うべき敵なんて存在しない、欲望の対象も存在しない。そこにあるのは無限に広がる虚構の世界だ。そして僕らにできることは、その虚構の世界に吹く風の歌に耳を傾けるしかない。でもそれでいいんだ。

そう言ってくれる気がするのです。

あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれは捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。
『風の歌を聴け』