『君の名は。』を見て感動できない理由

最近、ロードショーで『君の名は。』を見たので、感想を書きました。割とネガティブな感想になってますので、ご注意ください。

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『君の名は。』って?

大体の人は知っていると思いますが、簡単に説明します。『君の名は。』は2016年に公開された新海誠のアニメ映画です。公開当初から新海作品の特徴である美しい絵が話題となり、大ヒットしました。世界興行収入では『千と千尋の神隠し』を抜いて日本映画トップになったらしいです。

新海誠って?

新海誠はもともとは『ほしのこえ』や『秒速5センチメートル』などの作品でアニメ好きにはよく知られた監督でした。それらは、00年代オタク文化の特徴であるセカイ系を代表する作品です。セカイ系については、以下に解説したことがあります。

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あらすじは、皆さん知っていると思うので、割愛して感想に行きたいと思います。

感想

さて、僕が『君の名は。』を初めて見たのは2016年です。映画館で見ました。見終わったあと、猛烈な虚脱感に襲われたのを覚えています。それから、つい最近ロードショーで見て、その気持を言語化してみようと思いました。

中盤まではすごい良かった

中盤まではすごい良かったんですよ。

物語の主人公は東京の高校生、滝くんと糸守という山村で暮らす高校生の三葉です。この2人が、数日ごとに入れ替わってしまうところから物語は始まります。そこから、高校生ならではの一連のアレコレがあります。

ところが、ある日から三葉との入れ替わりがなくなってしまいます。そこで、滝くんは糸守に会いにいくんですね。そして、糸守は3年前の隕石(彗星のかけら)の墜落で消滅しており、三葉はすでに死んでいることを知ります。滝くんは3年前の三葉と入れ変わっていたんですね。

ここで、考えざるを得ないのは、隕石とはなにかってことなんです。これは、明らかに東日本大震災のメタファーです。

いやいや、考え過ぎでしょと思う人もいるかもしれません。でもよく思い出してみてください。

糸守に1200年に一度やってくる彗星の墜落を伝えるための洞窟の絵と途切れてしまった言い伝えがあったことを。僕は震災直後、東北各地で見つけられた石碑や歌に込められた言い伝えが報道されたことを覚えています。

そして何より、『君の名は。』が公開されたのは2016年です。では作り始めたのはいつでしょうか。構想を考え始めたのはいつでしょうか。それは、もちろん震災直後であったはずです。その時期に、このような物語を構想したのであれば、東日本大震災が念頭にあったことは言うまでもないでしょう。

つまり、この物語は本来なら出会い、結ばれるはずの2人が震災によって、出会えなかった話なんですよね。そして、忘れてるんです。災害があったことも、出会えたはずの女の子に出会えなかったことも。だからこそ滝くんは涙を流すんです。運命の人を失い、しかも、それさえも忘れている悲しさに。

これは、2016年の僕たちを非常に批評的な目線で捉えているのではないでしょうか。震災があって、大勢の人が死んで、村が消滅した。あの災害を忘れている僕たちです。本来なら出会えるはずだった大勢の人のことを綺麗さっぱり忘れ去った僕たちのことを描いているんですね。

ここまでは、すごいいいんです!

終盤ですべてが台無しになった件

それがですよ。いきなり、入れ替わって、あーだこーだして、隕石で誰も死ななかった世界線に移動しちゃうんです。「えええええええっっ」てなりましたよ。あの震災をいきなりなかったことにしてしまうんですよ。それはないでしょって思っちゃいますよね。それまでの感動を返してくれよと。

最後に振り返るとか振り返らないとか、途中で3年のギャップに気づけよとか、そんな些細なことはどうでもいいんです。このアニメの終盤で描かれるべきは、じゃあその悲しみをどう乗り越えるかという話なはずです。

でもそうはなりませんでした。簡単に言えば、震災で誰も死ななかったことにしたって話です。悲しみに向き合うよりは、「そんなこと忘れてファンタジーを楽しみましょう」です。そんな物語に感動できますかということです。少なくとも僕はできなかったのです。

何が言いたいか

つまり、何が言いたいかというと、ここまでの話を飲み会でしたらものすごく雰囲気が悪くなったので、気をつけようという話です。

飲み会でアニメの話はダメ、ぜったい