先日、『すずめの戸締り』を観たので勢いそのままに感想を書く。 前情報なしで観て、後情報なしで書いている。
新海作品と震災について
新海誠は東日本大震災以降、『君の名は。』、『天気の子』と天災をテーマに作品を作ってきた。映画を見れば明らかのように、作中の天災は東日本大震災のメタファーとして機能している。『君の名は。』では、隕石の衝突による高波であり、『天気の子』は雨による水没であった。これらは全て津波を僕に想起させた。
今作に置いて新海はメタファーとしてではなく、東日本大震災そのものをテーマとして描いている。映画の序盤で、主題が明らかになっときに非常に驚いた。ようやく地震そのものを直接的にテーマとして描ける年月が(新海にとって)たったのかもしれないと感じた。
ここで前作、前前作との関係性について書いてみたい。
『君の名は。』は、結ばれていたはずの2人(滝と三葉)が、天災によって出会えなかった物語である。2人は入れ替わりを通じ、天災による死を防ぐことで、また出会うことになる。作中では、隕石落下によって誰も死なない。
一方、『天気の子』は、天災を防ぐことを拒否する(起こす)ことで結ばれた2人(帆高と陽菜)の物語だ。『君の名は。』との違いは、実際に災害が起こり、被害があり、それらが受け入れられている点だ。ただ、作中で被害をアクチュアルなものとして描くことはしなかった。
パラフレーズすれば、震災によって出逢うはずだった2人が出会えなくなった物語(君の名は)と、震災がなければ出会わなかった2人の物語(天気の子)だ。
『すずめの戸締り』は、すでに起きてしまった震災の記憶の中で自分自身(幼き鈴芽)を見つけ出す物語だ。鈴芽は幼い自分を救うと同時に、忘れようとしていた過去と対峙し、それを受け入れる物語だ。
僕は『君の名は。』を観たとき、震災をなかったことにするのではなく、どう向き合うべきかを描いてほしかったと書いた。しかし、本作を観たあと思ったのは、本当に向き合おうと思ったら10年くらいの年月が立たないと向き合うことのできないくらいの物事だったのだ、ということだ。
おそらく本作が『君の名は。』と同時期に公開されていたら、決して受け入れられなかっただろう。そしてまた新海自身、震災による死そのものを描くことができなかったのだろうと思う。もちろん、震災から10年以上たった今でも、本作を観てつらい気持ちになる人はいるだろう。新海誠が描けるようになるのに10年程度必要だったということである。
そしてやはり、我々はそれぞれの方法で過去と向き合う必要があるのだろう。それは決して震災に限らないことだ。
新海誠の2択
新海アニメにはよく「運命の女の子を救うか、セカイを救うか」という2択が提出される。『雲の向こう、約束の場所』で出てきた問いだ。
『雲の向こう、約束の場所』では、セカイを救うことができたが女の子と結ばれることはなかった。 『天気の子』ではセカイを災害から救うことはできなかったが、女の子を救った。 『君の名は。』では幸運にもその2択は出題されずに糸守を救い、女の子とも結ばれた。
『すずめの戸締り』でこの2択は少し修正されて出題される。「運命の男の子を救うか、セカイを救うか」。鈴芽はセカイを救って男の子を諦めたあとで、再び男の子を救った。なかなか、アクロバティックな解法だ。 救うのが女の子で救われるのが男の子だからだろう。なぜかは知らん。
今作で新海はある程度、震災および家族について描ききったんじゃないかなと感じた。これを3部作として見ると、なかなか良い3部作だったなあと思う。