進撃の巨人を読んだ

『進撃の巨人』の最終巻を読み終えたので勢いそのままで書いてみる。

人類 対 亜人類

『進撃の巨人』は、2009年から2021年まで連載されたファンタジー漫画だ。2010年代は「人類 vs 亜人類」がテーマの漫画が数多くヒットし、アニメ化された。思いつくだけでも以下のような作品がある。

  • 東京喰種トーキョーグール
  • 『約束のネバーランド』
  • 『亜人』
  • 『鬼滅の刃』

同時に2010年代のメディアシーンで最もよく聴いたワードが「分断」である。SNSが世界を席巻した後、僕たちは何かについて表明すると否応なくか、かに分類される世界にいる。そしてまた上記の主人公たちも、人類亜人類かの選択を否応なく迫られる。

主人公は、人類と亜人類の対立(テーゼ vs アンチテーゼ)のジンテーゼ、すなわちその対立を融解させる役割を背負う。( 鬼滅の刃を除く*1 )

例えば、『東京喰種』の主人公は半グールだ。彼は人間であり、グールでもあるが故に苦しむが、それゆえに人類 vs グールという対立を解消することができる。

では、『進撃の巨人』の場合はどうか。もちろん、そう言った理由で主人公エレンは人類でありながら、巨人になる運命にある。物語の前半、エレンは巨人化できる人類として、人類と巨人の中間項として定義される。

しかし物語の中盤、人類 vs 巨人という対立構造は見事に反転する。あまりに見事なコペルニクス的転回だ。

エレンたちが駆逐しようとしていた巨人は、むしろ自分たちと同じユミルの民であり、海を隔てたマーレこそ人類と言ってよく、エレンたち巨人の民を駆逐しようとしている。

マーレとパラディ島

物語の後半、パラディ島から海を隔てたマーレが舞台となる。マーレは、壁内とは違い工業化された近代国家である。そこでは、ユミルの民が強制収容区へと押し込まれている。

パラディ島の壁内エルディア人は、巨人によって壁内へと追いやられたと信じている。一方、マーレでは、自民族の悪事のために強制収容区に入れられていると教えられている。

だが両方とも事実は全く異なっている

エレンたちが壁内に住んでいるのは、巨人たちのせいではない。王によって記憶を改竄されたからである。マーレで強制収容区に住まなければいけないのは、過去における祖先の悪事のせいではない。戦争で自由に使える駒が欲しいからである。

そして、どちらに住む子供たちも同族である巨人を倒そうとしている。(エレンたちは壁外の巨人を、マーレは壁内にいるエルディア人を)

パラディ島とマーレは、海を隔てて鏡像的関係にある。どちらのエルディア人も過去の歴史を隠蔽され、強制的に自由を奪われ、自らと同じ民族(巨人)を駆逐しようとする存在だ。 それぞれ場所にエレンとジークという兄弟が対置され、2人は巨人 vs 人類(ユミルの民 vs マーレ)という対立を解消する役割を引き受けながら、正反対の回答を見出す。ジークはエルディア人の安楽死を望み、エレンはエルディア人以外を滅ぼそうとする。

 ここで注目したいのは、パラディ島とマーレとの違いだ。パラディ島の描写は、中世ヨーロッパ的であり、いわばファンタジーの世界観でできている。異世界転生ものアニメでよく見る世界である。

一方、マーレはどう見ても産業革命後の近代国家である。ほとんどの読者は、マーレを見てナチスドイツ等の第1次世界大戦後のファシズム的国家を思い浮かべただろう。

この漫画に近代的国家が出てくると思っていた読者は少ないだろう。マーレの存在は、僕たち読者をファンタジーの世界から一気に現実の、第二次世界大戦中に連れ出す。そこには歴史認識的分断、民族的迫害が端的に描かれている。

この歴史認識的分断を、ファシズム的権力をリアリズムを伴って描いたのがマーレであり、ファンタジーとして描いたのがパラディ島だ。

読者は、ファンタジーの世界(パラディ島)では、そのファシズム的構造に気づくことはできない。マーレという鏡像的関係を見出して初めて気づくのだ。エレンという主人公は、権力構造が隠蔽されたファンタジーの世界から「自由」を獲得し、そのファンタジー性そのものを打ち破る存在である。

対立の解消

物語は、回り回ってエルディア人 vs マーレ人という構図に収斂する。もちろん、その対立構造は初期の人類 vs 巨人という構造をくるっと反転させてたものだ。

さて、このような対立において中間項として定義されるのが、主人公であるが、本作はそのような構造にはならない。では、その対立はどのようにして融解するのか。

対立を融解させたのは、食いしん坊の女(サシャ・ブラウス)が1人のマーレ人コックの料理を美味しそうに食べた、その瞬間だ。

結果として彼女は死ぬが、その死は1人の少女を分断というシステムの枠外へと誘う。主人公の特殊能力でも、舞台装置でもなく、この平凡な一風景によって、分断という壁が壊されていったのだ。

結局のところ人類なるものが和解するのは、一緒に同じ飯を食うなどと言う単純なことなのである。そして今、人類がその方法を手放さざるを得ない時代である。

 

*1:鬼滅の刃では、鬼と人間の中間的役割を妹にさせているが、妹が鬼と人間の間を取り持つ役割はなく、単に主人公が鬼と戦う理由としてしか存在理由はない。それゆえ、物語は単純化され、むしろそのことにより人気を獲得したと言って良い。