大江健三郎『万延元年のフットボール』の書評・感想

大江健三郎の『万延元年のフットボール』を読んだので書評・感想書きました。大江は今までなんとなく読むのを避けてきました。いざ、読んでみるとやはりとんでもない作家です。日本文学においてまさに必読だと思います。

未読の方やあらすじを知りたい方はこちら↓

大江健三郎『万延元年のフットボール』のあらすじ - 現代の高等遊民 blog

おすすめ度

おすすめ度:5.0点(5点満点中)

流石としか言いようがない。今年読んだ小説の中でベストだと思う。大江健三郎といえば、独特の文体で読みにくいというイメージが先行しているが、慣れればそうでもなく、むしろサスペンスな展開で非常に読みやすかった。

書評(ネタバレあり)

近年の大江健三郎といえば、政治的発言が目立ち小説家というイメージから離れている印象がある。本作は大江健三郎中期のまさしく小説家として絶頂期の作品であり、ノーベル賞の受賞理由にも挙げられている代表作だ。

『万延元年のフットボール』は大江の故郷である四国の山村が舞台だ。100年前に故郷で起こった一揆と現代の安保闘争、そして鷹四たちが興じる反乱とを普遍的な観点を持ちつつ、見事に描いている。

『万延元年のフットボール』の読みどころはやはり、最後のクライマックスだ。鷹四が自殺し、妻とも別れた主人公が穴ぼこから出る場面だ。あの場面を演出するためにそれまでのすべてがあったと言っても過言ではない。なぜ友人が死んだのか、なぜ鷹四が死んだのか、あのときどうしてあの言葉を発したのか。最終場面で綿密に練り上げられたプロットを発見したときには想像以上の感動がある。

僕はこの作品を通して夫婦関係というものについて考えざるを得ない。大江は、夫婦とはなにか。家族とはなにかということを問いかけている。障害のある子どもを捨て、アルコール中毒の妻、うつ気味の夫。主人公の蜜三郎とその妻は、ありとあらゆる夫婦問題を抱えている。

そもそも夫婦とはなにか。現代において夫婦という関係は間違いなく無用の長物と化している。夫婦になるというのは、論理的に考えてリスクしかない。親戚関係の付き合いや、不倫、離婚、金銭といった諸問題だ。そのリスクを負うのであれば、事実婚で問題ないはずだ。ではなぜ夫婦になるか。もっとも端的な答えは子供だ。

ではこの夫婦はどうか。彼らは子供を捨て、それ以来セックスもしていない。ではこの夫婦は一体どのようにして再生するのか。それはまさしく夫婦という形式によって再生するのだ。この二人は夫婦生活を営んでいない。しかし、夫婦であるがゆえに行動をともにしている。

そこに登場するのがラストシーンである。あの問答は夫婦であるからこそ生まれるのである。夫婦であるから蜜三郎が穴ぼこに入る癖を知っているのであり、夫婦であるからこそ穴ぼこから出てくるのを待つことができるのだ。

 いいえ、蜜。あなたがアフリカで働いている間、私は二人の子供と実家に帰っているつもりなの。

大江健三郎 万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

 この言葉を読んだ瞬間、僕は思わず声を上げそうになった。この内側から湧き上がるような感動である。蜜三郎という人間を心の奥から理解していない人間には出てこないセリフなのだ。それは夫婦であるから出てくる言葉だ。僕はこの小説を読んで夫婦という関係性を初めて肯定的に捉えることができた気がする。