安部公房『赤い繭』を解説します。教科書で読んだけど意味がよくわからんという高校生向けの記事です。安部が本作に込めた寓意とはいったい何だったのでしょうか。
記事の最後には高校の現代文教育について書いています。そちらもぜひ。
作者紹介
安部公房は、日本の作家の中でも特に世界的に知られた小説家でしょう。若くして亡くなってしまいましたが、長生きしていれば間違いなくノーベル文学賞を受賞していただろうと言われています。
安部は後にノーベル文学賞を取る大江健三郎と同様に実存主義文学と呼ばれています。簡単に言ってしまえば、「自分自身はいったい何者であるのか」といった主題が根底にある文学です。(実存主義について詳しく知りたい方はこちら)
安部作品の特徴は、この『赤い繭』のように現実では起こりえない超現実を通して現代の、あるいは読者の実存性について訴えかけていることです。それゆえに難解という印象がぬぐえない人も多いと思います。
しかし、超現実というフィルターを間に挟むことでしか描ききれない何者かがあるのだと安部は主張しています。安部公房は難解でありながらも、ユーモアセンスの優れた作家です。難しいことは気にせず楽しんで読んでみることをおすすめします。
ちなみに安部公房の壁 (新潮文庫)は名作中の名作なので、本作が気に入った人はぜひ読んでみてください。
あらすじ
本作の主人公「おれ」は「なぜ自分の家がないのか?」と考えながら住宅街を彷徨い歩いています。「納得のいく理由がないと死ぬにも死ねない」と「おれ」は言います。
「おれ」はある家を見つけ「ここが自分の家でないとは言えないのだから、自分の家であってもいいだろう」という理由で、その家の女に迫りますが、あえなく拒絶されてしまいます。
またあるときは、公園のベンチは誰のものでもないはずだと考えそこで寝てたりしていると、「彼」がやってきて追い払われてしまいます。
そんなふうにしてなぜ家がないのかを考えていると、「おれ」の靴から絹糸が出てきます。そしてついには絹糸につつまれ「おれ」は繭になってしまうのです。繭になった「おれ」は「彼」に拾われ彼の子供の玩具箱にしまわれるのでした。
解説
さて、まあ一読すると不思議に話ですよね。家がない男が歩いてたら繭になってしまうのですから。でもそこがこの作品を面白くしているところでもあります。
家とはなにか
この作品を読み解く上で重要なキーワードは「家」です。家とはなんでしょうか。安部は、家=居場所という意味で用いています。つまり「おれ」には居場所がないんですね。例えば、いじめられている子供はクラスに居場所はないですよね。両親が喧嘩ばかりしている家庭では、子供に居場所はありません。そういう意味で安部は家という言葉を使っています。
通常、クラスで居場所がなくても部活動ではあるとか、家の中にはある、といった人が多いです。でも中にはどこにも居場所がないという人もいると思います。
そしてそういう境遇に置かれると、人は「誰でも居ていい場所はなのか」と思うようになります。そのような人こそ作中の「おれ」なのです。かつては公園にホームレスが住んでても何も言われませんでした。でも今は警官に追い出されてしまいます。そういった現代の共同体(学校とか家とか部活)の中に居場所がない、そういう孤独をこの作品は描いています。
なぜ繭になったのか
では「おれ」はなぜ繭になったのでしょうか。共同体の中に居場所がない人はどうするか。自分という殻の中に引きこもるしかないですよね。これはいわゆる「引きこもり」です。それが繭という言葉のメタファー(比喩)になっています。
ここで安部は以下のように記述しています。
ああ、これでやっと休めるのだ。夕陽が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない。『赤い繭』
ちょっと笑っちゃいますね。けれでも、この言葉は本質を表しています。帰ってくる人のいない家に意味はないんです。自分以外誰もいない共同体に価値なんてないんですよね。
ユーモアを含みながら、ある種非常に恐ろしいことを語ってのける、これが安部公房という作家の持ち味です。
玩具箱
最後に繭となった「おれ」は「彼」の家の玩具箱に入れられてしまいます。玩具箱は一体何を表しているのでしょうか。ところで「彼」とはいったい何者でしょうか。実は「彼」とは何者でもありません。だから「彼」という代名詞が使用されています。いうなれば、「彼」という代名詞は、誰にでも当てはまります。
つまり彼=世間を表しています。なので玩具箱に入るということは、世間の玩具になってしまうということを意味します。それはもしかすれば、近所の人に好奇の目で見られることかもしれません。精神病院に入れられてしまうことかもしれません。あるいは死のメタファーなのかもしれません。
感想(おまけ)
さてここまで、一般的に解釈されている『赤い繭』について説明しました。まあ授業でもこういう感じに説明されるのでしょうか。よくわかりませんが。でももしこの記事を高校生が読んでいるのだとしたら声を大にして言いたいです。
こんな解説全く気にするな。
自分で書いておいてなんですが。小説というのは、作者が何を考えて書いたかを当てるゲームではありません。作者なんてはっきり言えば、どうでもいいんです。大事なのは読者が何を受け取るかです。
高校現代文では、「この作品を通して作者が何を言いたいか」が重要視されています。でもそんなものわかるはずがないのです。もしわかるのであれば、小説家はわざわざ小説なんて書きません。それを言えばいいのですから。端的に言えないからこそ小説を書くのです。
そして、読者にはその作品を解釈し、批評する自由があります。文学とはもっと自由な活動です。読者は小説から自由に想像や空想や妄想を広げることができるのです。けして正解を探すものではありません。文学の解釈を押し付けることは、文学の愉しみを減らすだけでなく、貶めていると僕は感じます。
高校生であれば、「男がいきなり繭になるとかマジやばい」という楽しみ方をすれば良いのです。フランツ・カフカの『変身』では「男が虫になっててワロタ」でいいのです。そこから「繭と虫って何がちがうんだろう」という問いかけが始まるのです。もしくは同級生の中にはもっと別の読み方をする人がいるはずです。その違いはどうして生まれるのか。そういうことを語り合うことが読書です。
教科書に乗っている解説だって、結局はどこかの偉い評論家が勝手に想像した作品解釈をあたかも正解のように載せているだけです。気にする必要なんてどこにもありません。大事なことは自分の直観を推し進めることです。
安部公房が『赤い繭』を書いてから随分と時間が経っています。そうなるとこの小説の解釈も時代によって変わって良いはずです。小説というのは時代の流れに負けない普遍性があります。ある時代のある場所でしか解釈できない小説が名作と呼ばれることはありえません。
そして安部公房という作家はそのような普遍性を持つ作家であると僕は思っています。