2000年台初頭にサブカル論壇を席巻したパワーワード・セカイ系。
セカイ系とは一体何だったのか。
ポストエヴァンゲリオン症候群
セカイ系の起源は90年台に社会現象にまでなったアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』にあります。
この言葉は当初、その当時に散見されたサブカルチャー作品群を揶揄するものであった。「一人語りの激しい」「たかだか語り手自身の了見を『世界』という誇大な言葉で表したがる傾向」がその特徴とされており、ことに「一人語りの激しさ」は「エヴァっぽい」と表現されるなど、セカイ系という言葉で括られた諸作品はアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の強い影響下
とWikipediaには書いてあります。
『エヴァ』が画期的だったのは、主人公の内面の描写にかなりフィーチャーしたということです。アニメ終盤ではほとんど主人公・碇シンジの内面が描写されています。
このような主人公の内面が必要以上に描写される=1人語りが激しいというのが『エヴァ』の特徴です。そしてその手法を引き継いだ作品群がセカイ系と呼ばれていました。しかし、”当初”とある通り、その意味は変遷していきます。
ちなみにポストエヴァンゲリオンの代表的な作品の批評をしていますので、暇だったら読んでください。
東浩紀によるセカイ系
セカイ系の意味は変遷し、現代では批評家・東浩紀らによる以下のような定義が一般的となっています。
主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと
わかり易い例として、2016年に大ヒットした新海誠の『君の名は』を上げてみます。このアニメは、主人公とヒロインの恋愛から、隕石の衝突という「世界の危機」といった問題へとかなり直接的につながっています。
そこには、大人たちの存在=中間項はほとんど無視されます。子どもたちの関係性の中で物語は進んでいきます。
前島賢によるセカイ系*1
一方、前島賢によれば、セカイ系という言葉は東浩紀らの定義によるセカイ系としてもポストエヴァンゲリオン症候群としてもあらゆる定義が蔓延し、もはやよくわからなくなっているとのこと。
実際、人によっては同じアニメがセカイ系と呼ばれたり、アンチセカイ系と呼ばれたりしているようです。
前島はセカイ系の共通点として、「世界設定の欠如」を上げています。例えばセカイ系の元祖となった『エヴァ』は「どうして使徒が攻めてくるのか」というような設定についてなに1つとして語っていません。この「世界設定」は東らの言う「中間項」とほぼ同様の意味と考えていいと思います。
さらに、前島はセカイ系の作品を注意深くみると、そこには作品に関する自虐的な、その虚構性をパロディにしたような自己言及性が見て取れると主張します。そして、そのややパラドキシカルな自己言及的な文体こそがセカイ系の特徴であるといいます。
そしてその虚構性に対する自己言及的な目線こそ、虚構の存在であるキャラクターに僕たちはなぜ感情移入してしまうのか、というアニメの本質的な問いに改めて向き合っているのであり、そのような作品こそがセカイ系だといいます。
僕の考える最強のセカイ系
正直、セカイ系に関してはいろんな人がいろんなことを言っています。せっかくなので僕も勝手に定義してみました。
僕が考えるセカイ系とは、「傷つくのは怖いから社会になんか出たくない。でもセカイと繋がりたい、このセカイに必要とされたい、生きる意味を見出したい、という欲求を捉えた作品」です。
『エヴァ』において、主人公である碇シンジは、戦いの中で傷つき、最終的には自らの内面に引きこもってしまいます。「傷つくのは嫌だ、セカイなんてどうでもいい」と言っています。
そして、現代の若者(=僕)は、「社会に出て嫌なヤツと働くより、家で引きこもっていたい。社会で傷ついて、傷つけあって生きるより1人で家にいたい」と思っています。でも1人で家にいる虚しさを感じてしまいます。
「やっぱりセカイと繋がりたい、誰かに認めてもらいたい、生きる意味を見出したい」と思ってしまう。そんな葛藤の中に生きていたのではないかと思うのです。
そこに彗星の如く登場したのがセカイ系であり、インターネットなのです。社会にでなくても、傷つかなくてもセカイと繋がれる、そんな欲求を叶えたのが90年台後半から2000年台にかけてまたたく間に普及したインターネットのセカイです。そして、その無意識の欲求を表現したのがセカイ系だったのではなかったのか。僕にはそのように思えてなりません。