【解説】東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』の解説と要約

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』の解説です。読んではみたものの小難しくてよくわからんという人向けです。買ってない人は買え。今年度読んだ中で最もスリリングな思想書。東浩紀という稀代の批評家が今なにを考えているか。なぜ彼は株式会社ゲンロンを起業したか。そしてこれを読んでわかることは東浩紀は実践する哲学者であるということだ。

世界の2層構造

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近年、よく強調される言葉が「分断」である。政治番組などで聞いたことがあると思う。現在、世界はあらゆる面で分断が進んでいる。最も顕著な例はドナルド・トランプが大統領となったアメリカとEU離脱を宣言したイギリスだろう。世界は急速に発展したグローバリズムに対し、ナショナリズムという古い権威で対抗し始めている。一見このグローバリズムとナショナリズムは共存しないように見える。しかし、東はこの2つが2層構造のように共存しているのが、現在の世界であるという。

そのグローバリズムとナショナリズムという2つの層が経済と政治である。経済のほうから考えてみよう。今、経済市場はかつてないほどにグローバルになっている。世界中どこにいてもAmazonを利用することができる。どこでもマクドナルドは存在する。経済においては非常にグローバルであり、それを止めることは誰にもできない。

一方、政治の世界ではどうだろうか。経済において、結びつきが強い日本と中国は政治的には非常な緊迫関係である。アメリカはトランプ大統領のもとアメリカンファーストを唱え、自国の利益のみを優先するようになった。ことはイギリスも同じである。急速にグローバリズムが広がるつれ、政治的にはナショナリズムに近づいているのだ。

東はこの構造を2層構造と呼んでいる。下半身(=経済=欲望)では繋がっているが、頭(=政治)は分離した状態であると東は説明している。しかし、これはある種当然のことだ。ナショナリズムというのはグローバリズムから生まれるからだ。共同体のアイデンティティは別の共同体に遭遇して初めて意識されるものだからである。日本の歴史上では黒船来航がそれに当たる。

この2層構造は我々に否応なしに選択を迫る。2つのうちあなたはどっちがいい?という問いである。グローバリズムを選ぶとどうなるか。グローバリズムの進む先にあるのは超個人主義(リバタリアニズム)である。人々は個人の自由を最大限に尊重し、自己責任という言葉が街中に溢れる。資本主義を最大限に推し進め、貧富の差は拡大する。そして自由に生きられるといってもそれは帝国の支配下によってだ。帝国とはGoogleやApple、Facebookといった超巨大グローバル企業である。彼らは今や一国の国家予算を遥かに上回る資産を持っている。

逆にナショナリズムの進む先にあるのは共同体主義(コミュニタリアニズム)である。人々は共同体の一員として、共同体の善を最優先にして生きることになる。そこにはかつて存在していたような人々の豊かなコミュニティが形成される。その一方、個人の自由は妨げられることとなる。

東はこの2つの選択肢を前にして、どちらも選ばないという道を模索しようと主張する。それこそが「観光客の哲学」である。リバタリアンとしてナショナリズムに抵抗するのではなく、コミュニタリアンとしてグローバリズムに抵抗するのでもない。観光客としてそれぞれに抵抗しようと東は主張する。

観光客とは何か

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東が観光客に夢見ていることはなにか。それは「誤配」である。誤配とは通常、郵便物が誤って配達されることをいう。その誤配こそが第三の連帯(リバタリアニズム、コミュニタリアニズム以外の道)の基礎だと東は主張するのだ。

観光客は根本的に誤配する存在である。よその国に観光にでかけ、観光地を回る。そこで良い経験や苦い経験をして、勝手気ままにその国の印象を持って帰るのだ。観光客がその国のことを本当の意味で理解することはできない。それでもなお、なんだか理解したような気になって帰っていく。それが観光客であり、誤配である。

では、なぜ観光客もしくは誤配がリバタリアニズムでもなくコミュニタリアンでもない、第三の連帯なのだろうか。観光とは誤配の連続だ。観光は計画にないトラブルや失敗の連続である。海外に1人旅に出たことのある人ならば想像が容易いと思う。しかし、あとになって振り返ると不思議とそのトラブルが楽しい思い出へと変換される。そこで出会った人々に妙な愛着が湧く。そんな経験はないだろうか。

僕はインドで散々な目に合ってなお、インドに惹かれてしまうような旅人を何人も見てきた。これが誤配の生む連帯である。普段の生活では出会うはずのない人に会う。たまたま日本人同士だからという理由だけで仲良くなる。そして観光が終われば別れていく。あとに残るのはなんとなく良い思い出である。これが誤配である。

これはナショナリズムやコミュニタリアンが生む連帯とは根本的に異なる。なぜなら観光客同じ共同体に属するわけではないからだ。もっと弱いつながりだ。だからといってグローバリズムに飲み込まれるわけではない。東は誤配にはグローバリズムによって進む帝国の牙城を崩すと主張する。それは繋ぎ変えだ。グローバリズムの帝国とは富や権力の集中である。その集中を誤配を用いて再分配できるのではないか。ネットワークの接続先の集中をずらすことができないか。それが東の狙いである。

ここで東が観光客と言っているのはもちろん比喩である。彼は観光客が世界を変えると主張しているわけではない。観光客のような存在こそが世界を変えるのだと主張しているのだ。その可能性のために、世界をより良いものとするために、東浩紀は哲学者として株式会社ゲンロンを運営している。研究室に閉じこもるわけでもなく、革命を先導するのでもない。「観光客の哲学」の実践の場としてゲンロンをやっているのだ。

このような人間が世界に何人いるだろうか。研究室の中で、テレビの中で世界を批評する哲学者は大勢いる。若くして会社を経営するIT起業家も大勢いる。しかし、東浩紀は哲学者であり、経営者だ。実践する哲学者だ。世界をより良いものとするため、自身の哲学を実践する東浩紀は端的に言ってカッコいい。

本書を読むと東浩紀という哲学者を応援せずにはいられない。ぜひ買って読んでほしい。このブログに書かれていることは東の主張のほんの僅かだし、論拠もほとんど示せていない。僕は2冊買った。1冊を友人のゲストハウスにおいてもらった。これが小さいながらも僕なりの誤配への応援である。