円城塔『 Self-Reference ENGINE』を読んだので、書評・感想を書きました。『 Self-Reference ENGINE』が描いたものは一体なんだったのか。まだ読んでない人、読んでモヤっとしている人、円城好きすぎる人向けの書評です。
おすすめ度
おすすめ度:3.5点(5点満点中)
個人的には必読書だ。しかし、円城塔という作家を万人に進めるわけにはいかない。捻くれた人間に可愛さを感じるような読者。すなわちツンデレキャラが好きなような読者にはおすすめしたい。
もちろん、ツンデレが好きだからと言って円城作品が好きになるという法則はない。でも僕は円城塔の小説が好きだし、ツンデレも好きだ。その程度にとってほしい。
ただし、もし初めて円城を読むなら本作よりオブ・ザ・ベースボール (文春文庫)をおすすめする。空から落下する人間をバットで打ち返す話しだ。これを読んでみて面白いと感じたのであれば、本書も読んでほしい。
書評
円城塔について
円城塔は芥川賞作家である。田中慎弥『共喰い』とともに、『道化師の蝶』で芥川賞を受賞している。芥川賞を受賞しながらも基本的にはSF作家と目されている。
円城の小説の原点は彼の大学時代からポスドク時代の研究だろう。物理と自然言語の中間的な研究をするうちに小説の題材を思いついたのではないかと思われる。そのため、その辺の専門用語が飛び交うのは覚悟で読んでほしい。
円城の作風を形容するのは非常に難しい。奇妙キテレツというもはや死後となって久しい形容詞が妙に合ったりする。例えていうなら、「パスタをフォークに巻き付け過ぎて、もはやパスタなのかフォークなのか、それとも作者なのか、作者自身よくわからなくなっている」と言った感じだ。
円城塔は物語を書く作家ではない。「物語についての物語」を書く作家であり、「物語についての物語」についての物語を書く作家だ。結局、そういう風にして彼は彼自身を書いている。いや、そういう風にしてしか書けないのだ。
そして、ご多分に漏れず本作もそんなような小説だ。なにせ題名は『Self-Reference ENGINE』。訳せば、自己言及機関。幾度となく繰り返される自己言及的な世界の中で、「僕」は彼女と再び出会うことができるのだろうか。円城塔は円城塔に出会えるのだろうか。
フィリップ・K・ディック特別賞を受賞した本作は、鮮やかにそして捻くれながら奇妙キテレツで自己言及な世界へ読者を誘う。Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)
本作について
本作にあらすじが必要か、と言われえば不要である。だが、あえて書く。これは機械がもはや自然と区別不能になった、はやりの言葉で言えば「デジタルネーチャー」な未来の話だ。
そのデジタルネーチャーな機械たちが乱立し、時空間は歪み、人間たちは意思決定を機械に委ねている。そんな世界の機械と人間の熱い戦いを描いたわけでもなく、友情を描いたわけでもない。
ただその世界で起こった出来事であり、起こらなかった出来事であり、これから起こる出来事だったりを書いたり、書かなかったりした小説である。
なにを言っているかよくわからないと思うが、興味がある人は読んでみるといいだろう。僕の言っている意味がわかると思う。
円城塔は何を描いたか
最初に書いたが、円城は「物語についての物語」を書いているし、「物語についての物語」の物語を書いている。この物語を語っているのは、エピローグにあるようにSelf-Reference ENGINEだ。
Self-Reference ENGINEは、題名が示すとおり、この小説それ自体だ。つまるとこと、『Self-Reference ENGINE』は自己言及的な小説であり、その小説自体が「私は自己言及機関である」と名乗っているのだ。
自己言及にはパラドックスがつきものだ。かの有名な「私は嘘をついている」というパラドックスである。私が嘘つきならば、その主張は嘘になるがそうすると私は嘘つきでなくなってしまう。
この小説はそのような自己言及的なパラドックスを生じさせている。つまり、小説それ自身が「私は小説である」と主張しているのだ。「小説である=嘘をつく」と読み変えて貰えば話は早い。小説とは嘘をつくことなのだから。
私は完全に機械的に、完全に決定論的に作動していて、完全に存在していない。それとも、Nemo ex machina。機械仕掛けの無。
円城塔『 Self-Reference ENGINE』
「機械仕掛けの無」とは何か。この言葉は「機械仕掛けの神」という言葉に由来している。「機械仕掛けの神」とは演劇用語である。
古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法を指した。
Wikipedia
「機械仕掛けの無」とは、まさしく本書で上のような役割を担っている。「機械仕掛けの無」は唐突に物語を終わらせようとする。
ところで、「物語」は存在するだろうか。僕たちは「物語」を読んでいる。でもしかし、「物語」それ自体は存在しない。考えてみてほしい。過去の自分を振り返って、「もしあのとき、違う選択をしていたらどうなっていただろう」と夢想したことはないだろうか。誰しも一度ならずあるはずだ。
残念ながら、僕たちは過去を変えることはできない。でも「物語」の中であれば、その可能性について語ることができる。存在しないはずの、起こらなかったはずの世界について語ることができる。
本作はまさしく、巨大知性体によって「起こらなかったはずの世界」が実現可能となった世界を描いている。つまりこの小説は「物語をいくらでも生成することのできる世界」について語っている小説だ。小説自身(=Self-Reference Engine)が小説の構造について語っている。
長らく書いてきたが結局の所、Self-Reference EngineとはSelf-Reference Enjoである。冗談みたいだが、この小説は円城塔が円城塔についての存在しないはずの物語について書かれている。物語の中で存在しないはずの円城塔は、現実の世界で存在するはずの円城塔、作家である円城塔を救済する、そういう物語だ。