少女革命ウテナを考察していく-エヴァを超えて-

少女革命ウテナ』見ました。面白かったです。特に決闘場に行くときの音楽と構図が最高です。絶対運命黙示録

あらすじ

視聴済みの方には不要ですが、あらすじです。

主人公は学園の中等部に通う男装の美少女・ウテナです。
ウテナは幼い頃に両親を失い、絶望の淵にいたところを”王子様”に助けられます。そして、王子様に薔薇の刻印の入った指輪を貰います。それ以降、ウテナは王子様に憧れるあまり自ら王子様になろうと決意し、学園では男の子のように振る舞っています。

一方、学園には生徒会という組織があり、そのメンバーは全員ウテナと同じ薔薇の刻印の入った指輪をつけています。そして、生徒会のメンバーは、「世界の果て」と呼ばれる者からの手紙により、彼らは決闘をしているのです。

決闘の勝者は、主に2つのものが手に入るという設定になっています。一つは「バラの花嫁」と呼ばれる姫宮アンシーとのエンゲージ(婚約)であり、もう一つは「世界を革命する力」です。

ウテナは姫宮アンシーから「バラの花嫁」としての役割から開放するために生徒会のメンバーたちと決闘を繰り広げていくことになります。そして物語は「世界の果て」「バラの花嫁」「世界を革命する力」の謎が次第に明らかになっていきます。

エヴァンゲリオン』とオウム真理教

このアニメは多くの90年台のアニメがそうであったように、子供が大人になろうと格闘するアニメです。

例えば、90年台を代表するTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』は基本的には、碇シンジという少年がエヴァンゲリオンという身体的な拡張により(体が大人になる)、使徒との戦い(大人の世界)に巻き込まれ、大人になろうとするという物語です。

そして、『エヴァ』よりもあとに制作された本アニメは『エヴァ』の影響なしにはいられなかったであろうと思います。また、95年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件の影響を受けなずにもいられなかったと思います。

例えば、このアニメでしつこくリフレインされる

卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らが雛だ。卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ。世界を革命する為に

このフレーズは明らかに子供が大人になろうとする格闘の隠喩であり、その革命を履き違えた集団がオウム真理教=「世界の果て」といえると思います。(しかし当時はそれなりに時代性を捉え、説得力があったのかもしれません)

王子様とお姫様

このアニメは、言葉の選び方に非常に注意を払っていて「王子様」、「お姫様」、「王女」、「女の子」、「女」という言葉たちを慎重に使い分けています。

それは、このアニメが大人と子供を明確に区別しており、「お姫様」は子供であり、「王女」は大人なわけです。つまり、この言葉は大人を指すのか、子供を指すのかを考えながら見る必要があります。

世界を革命する力とは何か

さて、この物語のキーワードとなっている「世界を革命する」とは一体どういうことなのでしょうか。

基本的に下部構造が上部構造を打倒することを指します。歴史的にはフランス革命がその1例です。市民が王政を打倒しています。

ウテナ』での下部構造とは子供のセカイであり、上部構造とは大人のセカイです。故に「世界を革命する」とは、身体的に大きくなったとしても子供のまま生きるということです。

それらは、この物語の少年少女たちがどのような過去や理由をもって決闘に挑んでいるかを見ても明白です。決闘に挑む少年少女たちは、ブラコン、シスコンだったり同性愛だったりと様々なコンプレックスを抱え、永遠の愛だとか友情とかを信じています。

それらは通常、大人のセカイでは存在していなかったり、認められていないコンプレックス(当時的に)であり、大人になる過程で克服したり、失ったり、他の欲求へと姿を変えていくものです。

しかし、『ウテナ』の少年少女たちはそれらを純粋に成就させようとして、「世界を革命する力」を求め、決闘に挑んでいきます。ウテナも例外ではなく、憧れの王子様の登場を待ち続けるという、いかにも子供っぽい夢を抱いています。

学園と決闘場

このアニメには2つの舞台があります。

一つは学園の世界でもう一つは決闘場の世界です。学園とは子供の世界の象徴であり、決闘場というのは大人になるための格闘の象徴です。

そして、決闘場の上に描かれている城はシンデレラ城をモチーフとしています。シンデレラというのは、シンデレラコンプレックスという言葉にも現れているように、子供の世界、少年少女が夢見る世界です。

天空に描かれた逆さのシンデレラ城は、子供のまま大人になるという革命(下部構造と上部構造の逆転)を象徴しています。

しかし、物語が終盤に近づくに連れ、学園=子どもの世界、決闘場=大人の世界という認識が誤っていることが明らかになります。

「終わりなき日常」

学園は子どもの世界であり、美少女・美少年たちの日常がコミカルに描かれています。これはすなわち、宮台真司オウム事件の数カ月後に指摘するように「終わりなき日常」です。「終わりなき日常」は、イメージ的には永遠に成長することのない学園アニメを思い出すと良いかもしれません。例えば、コナン君は決して年を取らないように。

そして通常であれば、その「終わりなき日常」の対比として非日常である決闘場があってしかるべきです。

しかし、このアニメではそのような対比構造ではないことが明らかになります。なぜならこのアニメでは、決闘で誰かが死ぬということもなければ、学園生活に影響が及ぶわけでもありません。

そして何より、決闘はしつこいほど反復されます。同じ音楽、同じ構図、同じ展開が何度も繰り返されます。正直、視聴者としては結構見ているのが辛くなります。

つまり、この決闘場でさえ「終わりなき日常」の一部として取り込まれてしまっているということです。このメタ的な構造が「エヴァ」との違いです。

エヴァ』において使徒との戦いは大人の世界です。戦いの中で主人公は実際に傷つきますし、人が死ぬます。しかし、『ウテナ』では、戦いの中で人は死にません。大人になるための格闘でさえ「終わりなき日常」となってしまっているのです。

そして、物語の最終盤では革命の象徴であった逆さのシンデレラ城は、ただのプロジェクションマッピングであり、この決闘を支配していた「世界の果て」は暁生であり、すべてがまやかしだったことが明らかになります。

つまり、これはそのままオウム真理教のメタファーといっても過言ではありません。

大人になったウテナ

物語の終盤、ウテナが暁生とセックスする描写が流れます。私はその時、このアニメはハッピーエンドになり得ないと感じました。

なぜならセックスするということはウテナが女になるということです。王子様に憧れる少女から、大人の女になったということです。(なりかけているというのが正しいかもしれません)

このあたりから「お姫様」に変わって「王女様」という言葉が多用されます。また、ウテナの服装が女装になったり、口紅をつけていたりすることで、大人の女性になったことが描かれます。

すなわちウテナは、子供のまま大人になる=「世界を革命する」ことはできないのです。では一体この物語はどうやって終わるのだろうか。そして実際、この物語はかなりアクロバティックな方法を用います。

最終回の決闘

最終回では、ウテナは暁生と決闘することになります。そこで、ウテナはアンシーに裏切られ背後から刺されてしまいます。なぜアンシーがウテナを刺したのか。

それはアンシーの言う通りウテナ「女の子」だからです。

では、どうやってアンシーを救うのか、それはもちろん「王子様」になるしかないのです。そして王子様というのは、大人ではなく子供なのです。

ウテナは女として、もう子供ではなく大人になってしまいました。それは暁生とセックスすることによって描かれ、それと同時に男の子の象徴である「王子様」性を見失なっていました。

女として大人になってしまったが、まだ男の子としてなら子供のままで生きる事ができる。それがウテナがもともと持っていた美少女と王子様という倒錯的な個性です。しかし、やはりそれを取り戻さない限りアンシーを救うことはできません。

そしてそれを取り戻すという描写が、ディオスから薔薇の刻印にキスをされるのを拒む場面です。女の子の服装から男装へと切り替わります。この描写はウテナが女の子から王子様に切り替わったことを如実に表しています。

さて、この最終回の場面で最も重要なのは、ウテナが血を出し怪我をしているという描写です。格闘場では、ほとんどこのような場面は描かれません。なぜならそれは、ただの遊びの決闘だったからです。しかし、最終回では違います。最終回でこそウテナは大人になる格闘をしているのです。

最後のシーン

物語の最後、ウテナは学園から姿を消しており、誰一人としてウテナのことを覚えていません。学園はいつも通りの「終わりなき日常」を続けています。

アンシーはウテナを探す旅へと出ます。これはウテナが学園の外で生きていることを暗示しています。学園の外は大人の世界です。

大人の世界では、人は傷つきます。しかし、それでもアンシーがウテナを探しに行くということはウテナが王子様であるということです。ウテナは大人の世界で王子様として、大人の世界で子供の精神性を持ちながら生きているのです。

学園の中で「終わりなき日常」に引きこもるわけではなく、宗教を信じて世界を相手に革命を起こすのでもない。君たちは外に出なければならない、外に出て大人になるのではない。外に出て子供のまま傷つかなければならない。