津田大介氏を芸術監督として迎えたあいちトリエンナーレ2019。それが燃えているらしいので、なんでそんなことになったのか考えてみた。
なにが物議を呼んだのか
あいちトリエンナーレとは3年に一度開催される国際芸術祭である。そこでどんな作家のどんな作品を展示するのかの決定権を持っているのが、芸術監督である。
まず今回、話題になったのは、監督が津田大介氏であるということだ。津田大介氏といえば、主にweb媒体で活躍するジャーナリストであることは有名である。だが、芸術とはかなり遠い位置にいるようにも見える。
実際、数年前(東日本大震災)までは、ほとんど興味がなかったようである。もちろん、主催者側はそんなことは百も承知で、あえて美術界隈から少し離れた人物を招聘しているのだろう。
監督として津田氏が就任したのも話題になったのだが、1番の話題は展示する作家のジェンダー平等を実現したということだ。
あいちトリエンナーレ2019、昨日の記者会見で現代美術とパフォーミングアーツのほぼ全てのアーティストが発表になりました→https://t.co/ksndIjo7yn
— 津田大介 (@tsuda) 2019年3月28日
「テーマに合う作家を選ぶ」という大前提の下、参加作家の男女平等を実現しました。下記データが示すように著しい不平等が美術業界には残っています。 pic.twitter.com/8jUQ2LGKOy
津田氏のツイートにあるように、日本の美術分野はジェンダー格差が非常に大きい。もちろん、これは美術業界だけではないのだが。そんな状況のなか、男女の作家数をほぼ同数にしたのである。
なぜ批判を呼んだか
男女の作家数が同じになったことの一体何がいけないのか、と訝しい人もいるだろう。津田氏のツイートに対するリプライを観察していると主に以下のような批判的意見が多く見受けられた。
- アートに思想を持ち込むな。
- 性別に関係なく作品の質を評価すべきだ
- 男女平等にしたらアートの質が落ちる
まず、1番上の「アートに思想を持ち込むな」と言う人はおそらく現代アートに興味のない人の意見である。現代アートは政治や思想とは切っても切れない関係だし、そもそもキュレーターや監督はアート展示に方向性や思想、メッセージ性を込めるのが仕事である。これでは、津田氏に仕事をサボれといっているようなものである。
下2つの意見はだいたい同じである。彼らは男女の性別に関わりなく良い作品を展示すべきであると主張しているのだ。わからなくもない意見である。
しかし、今回のあいちトリエンナーレ2019に関してそのような批判をするのであれば的外れなのである。なぜなら、あいちトリエンナーレは芸術祭であってコンテストではないからだ。良い作品だから、素晴らしい作家だからというだけで選ばれるわけではない。選ばれる作品は芸術監督である津田氏の決めたテーマや方向性に合致したもののみである。
そして、その津田氏がジェンダーレスという方向性を打ち出すのであれば、それにそった選考が行われるのは至極当然のことなのだ。さらにいえば、アートにおいて作品の優劣を決めるというのは本質的に不可能である。それは、美術史を紐解けばすぐにわかることだろう。
もし批判をするのであれば、「ジェンダー平等なんて、使い古された表現であって全く新鮮さもなく、面白みもない」等の批判が起こるべきである。ところが、今回は、新しく革新的であるからこそ、こんなにも話題になっているのである。
ちなみに津田氏は今回はテーマに合った作家を選んだだけで、男女比はそこまで気にしていないという趣旨のツイートをしている。
この騒動の本質について考える
僕はこの騒動をツイートで観察して1つの疑問が湧いた。もし、作家の男女比を同じにしたというのではなく、女性作家のみを集めたという展示を企画した場合にも同じような批判が沸き起こっただろうかという点である。
おそらく、美術に限らずそのような展示は過去にいくらでもあったのではないかと思う。しかし、そのディレクションに批判が集中したかといえば、そうでないだろう。少なくとも僕は知らない。全部女性または男性にすると批判はないが、同数にすると批判があるという面白い現象が起こっているのだ。
そこになにかしらのジェンダー問題の本質が垣間みれるような気がするのは僕だけだろうか。アートとは、観る者に小石を投げ込んでくるようなものである。その小石は、僕たちの心の底にある池に音を立てて落ちて行き、あとには水の波紋と僅かな石の重みが残るのである。だとすれば、津田氏のキュレーションは少なくとも僕にとっては、成功したと言えるだろう。