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デカルト、神の存在証明|「我思う故に我あり」の本当の意味とは

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本記事ではデカルト「我思う故に我あり」の意味とそれから導き出される神の存在について説明します。

「我思う故に我あり」によってデカルトが証明したのは、「神」の存在というのはあまり知られていません。一体どのようにしてデカルトは神を証明するのでしょうか。

我思う故に我あり

まずは、「我思う故に我あり」の意味から解説します。デカルトはあらゆるものの基礎となる真理を求めていました。その真理を探すためにデカルトが用いたのが「方法的懐疑」と呼ばれる方法です。

方法的懐疑とはあらゆるものを疑い、少しでも疑わしいものは排除するという方法です。そして最後に残ったものが真理になるというわけです。

例えば、あなたは今スマートフォンまたはPCでこの記事を読んでいると思います。ではそのあなたが使用している「PCやスマホは存在するでしょうか」。例えばあなたは目の錯覚をしているのかもしれません。もしかすると、夢を見ているだけなのかもしれません。

このようにあらゆるものを疑っていくと、本当に真であるもがあるのでしょうか。僕たちは今この世界がただの夢でないことを証明できるでしょうか。

デカルトは最終的に自分自身の存在を疑います。自分は本当に存在するのか。デカルトにとってはそれすらも疑わしいことでした。

でもその時、デカルトは思いました。「私自身の存在を疑っている」私というのは疑えないのではないかと。あらゆるものを疑って、考えている私という存在があることは確からしいと言えるはずだと。

ここにおいて、デカルトは「我思う故に我あり」と言ったんですね。私は考えている、だから私は存在しているのだと。ここで注意したいは、デカルトが言う私の存在というは物理的な存在、身体的な私という意味ではありません。あくまで「考えている私」です。

神の存在証明1

デカルトは「考えている私」の存在を証明しました。次にデカルトは神の存在証明をします。

「考えてる私」は様々なことを考えることができます。その中には私が生まれながらに持っている考え(=生得観念)と私が作り上げた考え(=作為観念)、私以外の外部から来た考え(=外来観念)があるとデカルトとは言います。

さてデカルトは外来観念について着目します。外から来た観念であるからには、それを与えた何かがいるはずですよね。自分自身にはない観念は他のなにかから与えられているはずだというわけです。

「考える私」は神という観念を考えることができます。神はという観念は先程の3つの観念のうち、どの観念でしょうか。デカルトは外来観念であるといいます。なぜなら、神という無限で完全な観念を有限で非完全な私から生み出すことはできないからです。

では神が外来観念として、一体何から与えられたのでしょうか。それは神から与えられたに他ならないとデカルトは言います。なぜなら、神の観念を生み出すことができるのは、完全で無限な存在である神自身において他ならないからです。

神の存在証明2

方法的懐疑では、全ての事柄を疑いました。その結果として私の存在を証明しました。ここで少し、疑うということについて考えてみましょう。「疑う」というはその事柄が真か偽を判定することができないから疑うわけです。

私が「疑う」のは、私が完全な存在ではないからです。そして、「疑う」という行為の前提にはそ、疑っている事柄の真偽を判定できる完全な存在を無意識的に前提としています。

デカルトは疑うことから私の存在を証明しました。しかし、その疑うという行為の前提として完全な存在である神が存在しなければならないと言っているのです。私が存在するためには神が存在する必要があり、方法的懐疑によって私の存在が証明されているのであるから、神が存在するのです。

神の存在証明3

3つ目の証明は存在論的証明というものです。神は完全なる存在です。では完全なる神が存在しないということがあるでしょうか。完全な存在というは「存在する」という性質を備えているはずです。存在しないのならば、それは完全ではないということです。

世界の存在証明

神の存在を証明したデカルトが次に証明するは世界の存在です。我々が認識している世界は存在するのかどうか。それがデカルトが証明したかったことです。

デカルトは神の存在を証明しました。もし世界が存在しないとしたら、神が人間を欺いていることになります。デカルトは完全なる神がそんなことをするはずがないといいます。故に世界は存在しているのだと。