なぜ密室殺人は生まれたか。- 笠井潔『哲学者の密室』

推理小説の王道といえば密室殺人である。かく言う僕も密室ものが好きである。

今回紹介する笠井潔の『哲学者の密室』は、矢吹駆シリーズ三作目であり、最高傑作として名高い作品だ。密室トリックもさることながら、素晴らしいのは超一級の密室殺人批評である。

 

 

「矢吹駆シリーズ」は、戦後の西洋哲学のメッカとなったパリで哲学を学ぶミステリアスな日本人留学生・矢吹駆が殺人事件に挑むシリーズだ。特徴は、各回ごとに殺人事件と並んで行われる思想対決である。今回対決するのは20世紀最大の哲学者・ハイデガーだ。

本作は、二つの時代・場所を行き来しながら進む。ひとつは戦後のパリにあるダッソー氏の屋敷だ。そこで、後頭部を強く打ちナイフで刺された他殺体が密室で発見される。もうひとつは、第二次世界大戦中の強制収容所で起きた未解決の密室殺人だ。物語の最終盤ハイデガーの哲学に吸い寄せられるように、二つの密室が重なり合ってゆく。

笠井の探偵小説批評

「密室殺人とは特権的な死の夢想の封じ込めである」

笠井 潔. 哲学者の密室 

 

密室殺人の成立

矢吹もとい笠井潔は、「密室殺人を成立させたのは、近代的な個人鍵のかかった部屋である」と論じる。近代的な個人とは、すなわちデカルトから始まる「私」である。他人とは区別され、私の行動規範は宗教でも家族でもなくこの私自身であるという主体だ。

その近代的主体の成立と同時期に生じたのが「鍵のかかった部屋」である。近代的な個人のプライバシーを保つための内側から鍵をかけることのできる個室だ。個室とは、家族からも隔離された自分だけの空間。正しく近代的個人のための部屋である。

この同時期に生じた、自分のことは自分で決める(自分自身の死でさえも)近代的主体と鍵のかかった部屋という建築様式が密室殺人を成立させたのである。

密室殺人は自殺を偽装することを目的とした殺人であるが、自殺という行為は、自分の死さえも自分で決める近代的主体のなせる技である。その近代的主体の自殺の偽装を目的として、鍵のかかった部屋で行われる殺人こそが密室殺人というわけである。

さて、ここまででもミステリー批評としては十分に面白いのだが、ここから矢吹はさらにハイデガー哲学を援用する。

ハイデガーの死の哲学

「死」はハイデガー哲学において非常に重要だ。端的に1つの真な命題として「人間はいつか死ぬ」がある。我々は普段、その「死の可能性」から目を背けながら生きている。

そういった状態をハイデガーは人間の本来的な生き方と区別して「頽落」と呼ぶ。「頽落」から抜け出すために「死の可能性」を直視し、その瞬間を死に駆動されながら、生きることが本来的な生き方である、とハイデガーは主張する。

いかにも矛盾極まりないが、自分自身の死こそが自らを生たらしめるのである。

真に特権的であるのは、自分の死であり、それ以外のなにものでもないのです。

笠井 潔. 哲学者の密室 

 

自分自身の本来的な生が自らの「特権的な死」によって定義づけられるのであれば、「自殺」とは「自らの死を死ぬ」ことである。自殺は、我々が日常的に行っている「死の可能性」から目を背ける行為、すなわち「死の可能性の隠蔽」、いつ死ぬかわからないという不安から解放されるための最終手段である。

... おのれの最も固有な、没交渉的な、そして追い越しえない、確実な、そのようなものとして無規定な』死の可能性の、完成された最後の隠蔽形態として自殺はある

笠井 潔. 哲学者の密室

 

密室殺人と強制収容所

自らの特権的な死、固有の死と全くかけ離れた死が存在する。それが、二つの世界大戦における大量死である。そこに果たして固有の死と呼ばれるものがあっただろうか。笠井は20世紀の探偵小説における密室殺人と第二次世界大戦中の強制収容所の死を対置して論じる。

特権的ならざる死、眼をそむけてしまうほどにおぞましい死。意味を剝奪された物体さながらの死、かつて絶滅収容所で体験された死。その不気味なものを封じようとして、密室は、ひとりでに生成してしまうのだ。

笠井 潔. 哲学者の密室

 

第二次世界大戦中の強制収容所で実際に存在したのは、ハイデガーの言う特権的な死ではない。主体性を失った生であり死、生きながら死んでいる存在である。そのような不気味なものを隠蔽するために探偵小説における密室殺人が生まれたのだ。

ここにおいて、冒頭の引用を見てみよう。

「密室殺人とは特権的な死の夢想の封じ込めである」

「特権的な死」とは、ハイデガー哲学に謳われる近代的主体の固有の死、自分自身の死である。しかしそれは「夢想」なのだと本作の主人公である矢吹駆は言う。強制収容所の死は特権的な死ではない、おぞましい死、生と死の境目のないような死である。その大量死こそが「特権的な死」が単なる「夢想」に過ぎないことの証左なのだ。だからこそ、それを隠蔽するために探偵小説に密室殺人が生まれたのだと笠井は論じるのである。

実に面白いミステリー批評ではないだろうか。この批評を読むだけでも本書は価値があるが、さらに密室のメイントリック、ハイデガー哲学とレヴィナス哲学の対決など見所は満載である。

終わりに

読み終わった後、少し思うところがあったので、記しておこう。

密室殺人とメフィスト作家たち

本書出版から4年後の1996年、講談社によって「メフィスト賞」が創設された。第1回受賞作に森博嗣『すべてがFになる』が選ばれ、第2回は清涼院流水『コズミック 世紀末探偵神話』が選出されている。

この2作品は両方とも密室殺人を題材としている。だが、この2作品は笠井のいう密室殺人ではない。むしろこの2作品に共通するのは、密室殺人の解体である。笠井によれば、密室殺人とは、特権的な死の夢想の封じ込めであった。つまり、密室に近代的な主体の固有の死という夢想が封印されている。

だが、森博嗣や清涼院流水の密室殺人は全く違う。『すべてがFになる』の密室殺人で死んだのは、小説内では実質的には登場することのなかった女性である。その固有性は語られることない存在である。本作での密室殺人は、小説内で唯一無二の存在、固有の存在として語られる真賀田四季の存在の消失、固有性からの逃避を目的としている。

一方、「コズミック 世紀末探偵神話」で行われる密室殺人は大量の密室殺人である。世界中のありとあらゆる場所で密室殺人が起こる。ここでは、密室殺人と大量死との対立が明らかに崩れ去っている。

現代において、我々は、没個性を当たり前のように受け入れている。わざわざ固有の死の夢想を隠蔽する必要はない。なぜなら、それが夢想であることを受け入れているからだ。

現代日本における大量死とは自殺である。年間2万人ほどが自殺している。密室殺人とは、自殺の偽装であった。世界大戦における大量死が近代密室殺人を描かせたのだとすれば、現代における自殺の大量死こそが、現代密室殺人を描かせているのかもしれない。

そこには固有性も特権生もない、死よりも辛い永遠かのように続く現実からの逃避が隠蔽されているのだろうか。