戦争は誰の顔もしていない

ロシアとウクライナの戦争が行われている。

この現状をどのように感じたか記することは、個人的に重要に思えたので整理してみる。これが本来のブログの使い方かもしれない。

近代以降の戦争について語る時、二つの見方をしてみたい。

一つは政治、外交としての戦争である。

その戦争に勝利することよって共同体に利益が生じる場合(間違った判断だとしても)に政治的に行われる。ほとんどの戦争はそうやって起こってきたと思う。

この判断は理性的に判断できるものである。複雑な外交戦略が存在し、支持された戦争もあれば、されない戦争もあった。歴史的に評価される戦争もあれば、されないものもあるだろう。

もう一は、実際に現地で人を殺し、殺されている人間の見方だ。私は人を殺したこともなければ、殺されそうになったこともない。安全な日本でのほほんと暮らす人間には想像もつかない目線である。

そこでは誰かが殺人者となり、誰かが死ぬのである。友人の死、家族の死、自らの死である。つい数週間前まで何ヶ月も先の予定を立てていた者の死。

だが、私はその死にゆく人々の顔を知らない。何万キロも離れた土地に住む円満な家族の顔を私は知らない。我々が戦争について語るとき、そこに実際に死んでいく人々の顔を想像することはない。だからこそ、簡単に冷静に戦争について語れるのだ。

「戦争」を語るとき、戦争は誰の顔もしていない。戦争は人の死と悲しみをいとも簡単に数字に変えてしまう。その固有の物語性を剥ぎ取ってしまう。

戦争は政治的である。故に一つ目の視点に立つことは重要である。しかし、そのとき実際に死んでいく彼らの視線を忘れないようと思うのであった。